春の窓



 甘く香ばしい匂いが湯気を立てて広がる。
 嫁の淹れてくれた珈琲の薫りに包まれて、ほうっと息をつく。
 目にとまった過去の覚え書きを何となしに捲る。書きかけの文字を見つけた。それは確かに、これこれあの時のものだとわかるのだが何を書こうとしていたのか、もう分からなくなっていた。忘れるくらいだから、くだらないことだったような気もする。
 不恰好なので、黒く塗り潰した。長い毛虫が真っ直ぐ横たわった形になる。
 「文字でなくともよいか」
 毛虫に向かって言ったわけではない。次に長方形を書いて毛虫をぴったりの箱に入れた。これでもう動けまい。いや、動くはずもない。
 「棺桶にしよう」
 毛虫が身震いをしたように見えた。


 それから、毛虫と箱の隙間を埋めるように花を描き込む。なかなか難しいものだ。腹が立ってきたので、箱の中を全部黒く塗った。あとは埋葬するために丸めて捨てるだけになった。


 「蓋をしたぞ。毛虫、あばよ」
 その言葉を発したことで愛着してしまった。もう彼は毛虫とは言い難い四角の箱になっていた。俺がそうしたのだ。取り返しのつかない馬鹿なことをした。彼は毛虫だったが、さらなる元は俺の書き損じだ。書き損じようが、俺の子だのに。
 「毛虫、すまない。どうか、どうか」
 箱の両端から各々同じ幅の箱を縦に生やし、縦の先端に箱を横に乗せる。 大きな四角だ。その中心を通るように縦横の中央線を引く。
 「見ろ、毛虫。窓だぞ」
 外には全てがあるのだ。空、雲、樹木。家、道、学校、会社、店、 公園。親父、お袋、兄貴、姉ちゃん、ポチ丸。素晴らしき友人共。八知子……
 「そうだ、花を描こうか」
 いくつか咲かせて、あれの姿が頭に浮かぶ。ひらひらしているあの虫。
 「おい、毛虫、お前飛ぶんだったな」
 窓の外に四枚の翅を持った虫を描く。そいつは不規則に飛び回りどこかへ行った。
 「うん、よし、行ったか」
 頷いて、珈琲を啜る。すっかりぬるくなっていた。
 「飲まないと怒られるからな」
 一気に飲み干して立ち上がって言った。
 「おおい、春美、おかわり」
 上履きの軽い足音で嫁が部屋へ入った。春美は、なんだか嬉しそうにカップを受け取り、笑った。
 「ねえ、あなた。ついさっき窓の外に蝶々を見たの。もう春なのね」
 「うん、そうだな。春美も見たのか。俺も……」
 紙の中に描いたはずの蝶はどこかへ行った。
 「俺もさっき窓の外に蝶を見たよ」



(原)2011/02/23 (編)2012/06/02